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膝枕





蒸し暑い午後の陽射しも、ようやく落ち着いた初夏の夕暮れ。
日向ネジは、宗家の主からの呼び出しにより、珍しく酒肴の席に呼ばれていた。

「遅くなりました…」

ネジが通された奥座敷には、既に日向家の当主 ヒアシが席についており、寛いだ様子で庭先の涼を眺めていた。
チリリ…ン
鈴やかな風鈴の音が、廊下をはさみ心地よく耳に響く。

「かまわん。日も沈み、風がでてちょうど涼しくなってきたところだ」

ヒアシは、スッと視線をネジに移すと大様に頷いた。

広い座敷に、座る席は、ふたつ。
どうやら、ヒアシとネジのさしでの飲みという事らしい。
普段、酒をたしなむ姿を見ないヒアシの今宵の誘いが、ネジには、少々意外であった。

「ネジよ。お前ももう…今年で成人か…」

ネジが席に座ると間もなく、ヒアシは、立派な男に成長した甥をみつめ、感慨深そうにふと呟いた。

「ハイ。今月の上旬、二十歳になりました」

急に年齢を確認してくる伯父の態度を訝しく思いながらも、ネジはヒアシの言葉に、居住まいを正して答えた。

「月日の経つのは、存外早いものだな…」

『ふむ…』と、ひとつ思案顔で頷くと、ヒアシは、パンパン…と軽く手を打ち鳴らした。

「はい。ただいま…」

ヒアシの合図に、柔らかな女の声ですぐさま返事がかえり、奥の間へ続く襖がスッと開けられる。

「ヒナタ様?」

見れば、給仕姿のヒナタが、しずしずと酒肴を揃えた盆を持って座敷へ入ってきた。
驚いたように眼を見張るネジを、ヒナタは、はにかむような眼でそっと微笑んだ。

「今日は、内々で飲むお酒だとお父様に言われたから…その、お食事のご用意をしても宜しいですか?」

「……どうぞ」

ネジは、ヒナタの用意しやすいように、ほんの僅か身体をずらす。
日向宗家のご息女であるヒナタの手ずから、夕餉の膳を並べる姿を、ネジは眩しいものでも見るように眼を細めた。
幼かった少女はいつの間にか大人の女性となり、日に日に美しくなる彼女は、周囲の眼を見張るほどだった。
ヒナタのたおやかな指が、危なげに徳利を傾け、ネジの杯を酒で満たしていく。

「ありがとうございます…」

満たされた杯を手に、ネジはそっけなく礼の言葉を述べた。
吐息がかかるほどの距離。
ネジは、ヒナタの横顔から無理やり視線を逸らし、いささか勢いよくそっぽを向いた。
ほの白い首筋を間近にして、ネジの動悸もいやがうえにも速くなる。

「うむ…では、ネジ。ささやかではあるが…今宵は、お前の成人を祝おう」

杯を手にしたヒアシは、いつになく穏やかな表情で、甥の成長を喜ぶ言葉を呟いた。

それから、一言、二言…ヒアシとネジは、他愛もない会話を交わし、杯に満たされた酒を口にした。

「ふむ…ネジ。酒は、そこそこ嗜んでいるようだな」

成人したばかりの甥が、度数のキツイ日本酒に音をあげる様子もないのに、ヒアシは感心したように頷いた。

「いえ…流石に未成年でしたから、アルコールの類は、ほとんど飲んだ事がないのですが…この日本酒は、口当たりがよいので飲みやすいのでしょう」

「ほほう…いける口か?」

ネジの言葉に、ヒアシはニヤリと嬉しそうに眼を輝かせる。

「ヒナタ…たしかまだ、年始祝いのとっておきの一本が残っていただろう? ネジに持ってきてあげなさい。私には、いつものモノを…」

「え? あっはい…で、でもお父様?」

喜々としたヒアシを、戸惑った様子で見返しながら、ヒナタは素直に新しい酒をネジの為に用意した。

「ヒアシ様…私には、これで十分すぎます」

そんな高級な酒など飲んだ事もないネジは、若輩者には分不相応だと断ろうとした。
実際、杯の中身は残っており。まだほんの一口か二口、酒を口にしただけだった。

「まあ堅苦しい話しはよい。今宵は、ネジ。お前の成人祝いだ…私からのはなむけと思ってくれ」

ヒアシにそう言われてしまうと、断るに断れず、ネジは恭しく新たな酒を頂く為に、残っていた杯の中身をグイッと一息に空けた。



* * *



「では…そろそろ…」

夕刻から二人が酒を飲み始めて、一時が過ぎた頃…。
ネジは、自分がだいぶ酒を飲んでしまったのを冷静に判断していた。

「なんだ…もう終わりか? つまらんのう…もう少し、空けてもよいのではないか?」

ほんのりと目元を朱に染め、ネジは、ヒアシの誘いに頭を振った。

「いえ…流石にこれ以上は…。今夜は、お誘いありがとうございました」

酒が回り始めたのか、身体の芯がカッと熱くなっている。
酔いの自覚症状が出始めるまで酒を飲んでしまった。

「……今夜は、こちらに泊まっていきなさい。部屋は用意させてあるから、ヒナタに、案内させよう」

「いいえ、大丈夫です。今夜は、本当にありがとうございました」

そうは言っても、ヒアシの言葉に甘えるわけにもいかない。
ネジは、ヒアシの申し出を丁重に断った。
そうか…と、呟くと、それ以上強引に勧める事もなく、ヒアシは頷く。

「いや、私の道楽につき合わせてすまなかったな…。久方ぶりに楽しい酒であったわ」

ヒアシは、どこか懐かしい様子で視線を庭に向けると小さく苦笑する。
どこからともなく柔らかな夜風が吹き、チリリン…と風鈴を鳴らした。

「昔…、一度だけではあるが、ヒザシともこうして…二人で杯を空けた事があった…」

ポツリと呟く。

「父と…ですか?」

ネジは、当時の宗家当主の兄と、分家の弟の確執を聞き知っていただけに、意外そうに目を見開いた。

「ふふ…意外であろう?」

ヒアシは、ネジの反応をさもあらんと見つめ、自嘲気味に微笑んだ。
ネジは、酔いの回った頭で、なんとはなく若かりし頃のヒアシとヒザシの姿を想像する。
ヒザシは、きっとヒアシに酒を勧められる度、困ったように…それでもどこか嬉しげに杯を空けていたのだろうか。
ヒアシの言葉にゆるやかに頭を振って、ネジは微笑んだ。

「いえ…。ですが、きっと父は嬉しかったと思います…」

「さて…どうだったかな…」

遠い記憶を辿るようにヒアシの目蓋が、フッと寂しげに伏せられる。
珍しく物思いに沈むヒアシの姿に、ネジもまた、つと…こみ上げた胸のつかえを飲み込んだ。
決して癒される事はないと思っていた過去の傷痕…その古い痛みも、いつしか遠い記憶の中に薄れ、愛しい思い出だけが甦る。
ヒアシが話さなければ、知るよしもなかった若かりし頃の伯父と亡き父との交流を、ほんの少し垣間見る機会を得て、ネジは、言葉少なに今夜の酒肴を感謝した。



* * *



「それでは…今夜は、これにて失礼いたします…」

静かに黙し、杯を口に運ぶヒアシに、ネジは、深々と礼をして立ち上がった。

「うむ…気をつけてな…」

そう…ヒアシが、声をかける目の前で、唐突にネジは、くにゃりと身体をよろめかした。

「ネ、ネジ兄さん!?」

すぐ間近で、ヒナタの慌てたような悲鳴があがる。

「!?」

何事が起きたのか、その瞬間までネジ自身にも分からなかった。
ただ理解できるのは、身体が言う事を利かない。
そして、自分が冷静に判断していた以上に、思考が乱れているという事実のみだった。
意識はある。
けれど、座って飲んでいた時には気が付かなかったアルコールの力が、今まさに立ち上がった瞬間に、全身を巡って支配していた。

「ふむ…やはり、ネジも酒には弱かったか…」

酔っ払って畳にへたり込む甥を、ヒアシはしたり顔で見つめた。
酒を勧めた当の本人は、薄情にもこのネジの泥酔する姿を予想していたらしい。

「ヒ…アシ…さ、ま?」

ネジは、目の前も、頭の中もグルングルンと回る世界に耐えながら、ヒアシの言葉に茫然と呟く。

「お父様! 日向の者は皆、下戸だと…そうおっしゃってたのに! 酔っ払うと分かっていて、ネジ兄さんに、ここまで強いお酒を飲ませてるなんて…」

ヒナタが、甲斐甲斐しくネジの世話を焼きながら、ヒアシに非難の声をあげる。

「お父様だって、あまりお酒は飲めないから、途中からお一人で水に替えていらしたじゃないですか!」

「何事も経験だ」

娘の咎める声にさらりと答えて、ヒアシは、ネジの空けたお銚子の本数を数える。

「ふむ…二合と半か…まあ、初めて飲むにしては、なかなかやるな…」

ヒアシは、血の気を失い青ざめているネジを横目に、ひとり満足げに頷いている。

「お父様!」

怒るヒナタの声が、ガンガンとネジの脳裏に響く。

「す、すみません。ヒナタ様…」

弱々しいネジの声に、ヒナタは、ハッと思い出したようにネジの顔に視線を戻した。

「ああ! ごめんなさいっ、ネジ兄さん!」

心配そうに覗き込むヒナタの顔を間近にして、ネジの意識はどんどん遠のいていく。
温かな感触がふわりとネジの頬を包み、柔らかな真綿のように訪れた睡魔が、ネジの目蓋を重くしていった。
醜態を晒しているのは分かっていたが、ネジにはもうどうにもできない。

「ネジ兄さん? 大丈夫?」

ついには、心地よいヒナタの声を耳に、ネジは眠りの世界へと誘われていった。



* * *



足下に肌寒さを感じ、ふと眼を開けると……そこには、ウトウトとまどろむヒナタの顔があった。

「…ッ!? ヒナタ…様?」

心臓がドキリと高鳴り、ついで自分のあげた声に、ズキリとネジの頭が痛む。

「――――うっ」

慌てて飛び起きようとしたネジは、一声唸ると、そのまま情けなくその場に崩れ落ちた。
そして、不思議と後頭部には、ふわりとした柔らかな肉の感触が…。
ネジの身体を支配していた酔いが、グングンと醒めていく。
その代わり思考はおろか、なぜか身体もキピーンと音をたてて氷のように硬直した。

「ん……ネジ兄さん? 起きた?」

眠たげな声が、おっとりとネジの名を呼ぶ。

「どうし――――っうう。ど、どうしてココに? 私は、いったい…」

再び大声を上げかけたネジは、ガンガンと痛むこめかみを押さえながら、小声でヒナタへ問いかけた。

「うん…あの後すぐ、ネジ兄さんが眠っちゃったから、お父様も、お座敷に寝かしてあげなさいって…」

ヒナタの顔を、固まったように凝視するネジを、ヒナタは、困った様子で見下ろした。

「酔ってたからだけど、その……ネジ兄さんが、服の裾を離してくれなかったから運べなくて…」

妙に、回りくどく話すヒナタの唇を、ネジはただただ茫然と見上げていた。
……そう、ヒナタはネジの顔を見下ろしているのである。
そして、ネジは、ヒナタを見上げているわけで……。

「このままじゃ、ネジ兄さんが風邪ひいちゃうし……起きるまで、膝枕していました」

そして、ヒナタは、気恥ずかしそうにニコリとネジに微笑んで答えた。

「申し訳…ありませんでした…」

茫としてあやまりながら、ネジは、急速に自分の後頭部と頬に添えられたヒナタの温かさを意識した。

『膝枕…ひざまくら…ヒナタ様に、ヒザまくら…。膝枕だと!?』

愕然として身動きする事も忘れたネジを、ヒナタは、きょとんと不思議そうに見つめている。

「あの…そろそろ大丈夫かな? やっぱり、ちょっと足が、しびれてきちゃった…」

てへ…と照れくさそうに微笑みを浮かべるヒナタの眼を見返し、ネジも、久しぶりに過ごす二人きりの親密な時間を意識した。

「あのね…ネジ兄さん…」

ネジの緊張が緩んだのを感じたのか、ヒナタが、甘えるようにネジの眼を覗き込む。
申し訳なさそうに、つつ…とネジに視線を向けたヒナタは、本当にすまなそうに告白した。

「本当は、お父様もお酒弱いんだよ。…だから、お酒にのまれる感覚を一度経験しておくといいって…それで…なの。ごめんなさい」

「そうなのですか? …いえ、大丈夫ですよ。いい…経験をさせて頂きました」

ヒアシのお節介ともいえる今回の出来事を、ネジは苦笑まじりに肯定した。

唐突にひとつの疑問が思い浮かぶ。

『まさか…ヒアシ様は、これを見越して? …まさか…な…』

ヒナタとネジが想いを寄せ合いながらも、今だその先へと進むのに二の足を踏んでいる事を、宗家の当主は気づいていたのか。
ネジは、自分の思い過ごしと苦笑した。

いつまでも、奥手な若者たちへの老婆心であったのかどうか…。
それを知るのは、宵闇に浮かぶ細い月の光りだけだった。



* * *



おまけ…。



「ヒザシよ…お前も、相当酒に弱かったな…。しかし、ネジの酔い方はお前に比べると、随分大人しいものだ」

月見酒と洒落込んで、独り手酌で杯を空けたヒアシは、遠く彼岸にいるであろう弟へ、そっと語りかけた。

「全くもってお前の酔い方ときたら…一口、二口目は飄々と空けるくせに、すでにその時点から酔っ払って…しまいには、説教し始めるから煩くてかなわん」

当時、まだ若かりし頃の昔を思い出し、クックと咽喉の奥で笑う。

『どちらかというと、ネジの酔い方は貴方に似ていらっしゃる…。ただし、貴方の場合、一口含んだ途端に、昏倒していらっしゃいましたが…』

目蓋の裏にあるヒザシの姿は、その優しげな面持ちで、皮肉をさらりと呟いているかのようだった。
日向宗家の当主として生きてきたヒアシの鋭い視線が、つかの間ふうっと緩む。

「なあ、ヒザシ…いくつになっても、我らの親馬鹿ぶりは、ほとほと治りそうもないぞ」

ヒアシの自愛に満ちた眼差しは、闇夜を照らすには、今はまだ細く、頼りない月の光りを、からかう様に見つめていた。










すいぞくかん 水乃えんり 筆
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