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『干天の慈雨』  もうひとつのお話






* * *





ザアアー。

「……」

茹だるように暑かった夏の日照りの日々も、すっかり影を潜めた晩夏。
降り止まぬ雨の音だけが、外の世界から隔絶された室内に満ちていた。

薄暗い場所で二人きり。

何故か呼吸ひとつ…身動きひとつさえ取るのも憚られ、どちらともなく口を噤み、奇妙な沈黙に支配される。
ネジとヒナタは、互いに緊張した面持ちで、焚き火のパチンとはぜる音に耳をすませていた。

「…ヒナタ様……」

先に、口を開いたのはネジだった。

「なぁに? ネジ兄さん…」

戸惑ったように応える柔らかな唇へ、ネジの視線が吸い寄せられる。

『貴女の優しさに甘えて…また、貴女を傷つけてしまいそうです』

ネジは、肩の筋肉を強張らせ咽喉の奥で苦しげに呻いた。
今更ながらに、視界の端にちらつく薄着のヒナタの身体を意識する。

欲しかったものが、目の前にある。

厳しい精神鍛錬を行っていようとも、ネジとて、若くしなやかな肉体を持つ青年だった。
外界から閉ざされた空間に二人きり。
降り止まぬ雨の音に惑わされて、いつまで自制心が持つか、ネジ自身にもわからなかった。

ただ、傍にいるだけでよかった…。
なのに、今はそのぬくもりに触れたい…。

けれど抱きしめた途端に、華奢な身体を壊してしまいそうだった。

「? …どうかしたの?」

続けるべき言葉を選べずに口を噤むネジを、ヒナタは、不思議そうに小首を傾げて見返す。
薄紫色の瞳が、緩やかに瞬きを繰り返し、ジィッとネジの返事を待っていた。
その穏やかな瞳に、昔ならいざ知らず今のネジが抗えるはずもなく、自然と身体が吸い寄せられていた。

コツン…。

ヒナタの華奢な肩へ、ネジは許しを請うようにその頭を預けた。
僅かばかり肩に触れたネジの額に、ヒナタはハッと息を飲む。
視線を横に動かせば、すぐ目の前に在るネジの存在に、ヒナタはなす術もなく硬直していた。
雨に濡れてしっとりと艶めく漆黒の髪が、音もなくこぼれて、端正なネジの横顔を隠してしまい、表情を伺う事もできない。

「………」

微かな呼吸の乱れる音と、外で降りしきる雨の音以外、二人の居る空間は静かな沈黙に包まれる。

『ど…どうしよう…ネジ兄さんが…』

ドギマギと心を乱しながら、それでもヒナタは、大人しくされるままになっていた。
密着しているわけではない。
けれど、ヒナタの肩にほんの少し触れただけの額の固い感触が、互いの姿勢をいやが上にも意識させる。
雨に濡れた服を乾かす為に、ヒナタは下着のラインが透ける薄着であったし、ネジの上半身は裸のままだった。

『ああ…もっと可愛い下着にしておけばよかったな…』

そんな他愛もない女心がチラリと頭をかすめ、その先を仄かに期待している自分の気持ちを慌てて打ち消す。

『で…でも。ネ…ネジ兄さんが望むなら…』

そんな密かな決意を知ってか知らずか、ネジは、微かに呼吸で上下する肩以外ピクリとも動かなかった。

「ネジ兄さん?」

不思議そうに呟くヒナタの声を、ネジは心地よさげに耳を澄ませて聞く。
ヒナタの緊張に遠慮してか、それ以上何をするでもなく、目を瞑ったネジは、そのまま暫く動かずにいた。

「もう少しだけ…このまま…」

ゾクリとヒナタの耳朶に響く、ネジの声。
掠れた低音は、どこか甘えるようにヒナタへ触れる事への許しを請うていた。

「は…はい」

ヒナタは、不可解な行動を問いただすでもなく、ネジの言葉に素直に頷いた。

―――とはいえ、いつまでこの体勢でいればいいのだろうか?

ヒナタは、ようやく自分の手持ち無沙汰の状態に気づいた。
落ち着いて周囲を見る余裕がでてくると妙に大胆な気分になって、普段ならこんなに間近にする機会も無いネジの横顔を観察してみる。

ネジの肌は、雨に濡れてひんやりと冷え切っていた。
焚き火の光りに反射した雨の滴が、キラキラと光る玉となって黒い艶のある髪を彩っている。

『あ…ネジ兄さん、まだ濡れている…』

ヒナタは、焚き火のじんわりとした暖かさで、冷えた板床に直に座っていても、さして具合は悪くない。
早めに濡れた上着を脱いだおかげで、下に来ていたインナーもそれほど被害を受けていなかった。
ズボンは流石にネジの前で脱げなかったが、火に近い足の裾の辺りは早くも乾き始めている。
ネジが心配するほど、ヒナタの身体は濡れてはいなかったのだろう。

『ネジ兄さんが、前を走って雨風から庇ってくれていたからかな…』

ヒナタは、ぼんやりと考えながら、ネジの優しさに改めて気が付き申し訳なくなる。
それもその筈、ネジは己よりも常にヒナタの身を優先している。
自分よりも、ネジの身体の方がよほど冷えているのがその証拠だった。
今更ながら、その事実に気が付いたヒナタは、心配そうに視線をネジの全身へ移した。

『どうしよう…もっと体温上げなくちゃ。ネジ兄さん、風邪ひいちゃう…』

身体が温まってきたせいか、ぬくぬくとした焚き火の心地よさに、思考が緩慢な動きをしている。
普段から手のひらが温かい体質のヒナタは、何の気もなく素朴な思い付きから、自分の手で少しでも温まらないものかとネジの身体をまさぐった。

『背中に手を回した方がいいの…かな?』

ヒナタは、オズオズとネジの胴まわりに両腕を伸ばした。

傷ついた鳥を包み込むように…その身体が癒される事を願いながら、ほんの一時の安らぎを。

ヒナタの指がそうっと触れると、滑らかな肌の下で鍛えられた背筋が、ピクリと僅かに痙攣する。
何故か、警戒心は起きなかった。
初めて手のひらに感じる広い背中。

『あ…ネジ兄さん。男の人の身体だ…』

ヒナタは、大胆な自分のその行為を、頭の隅でまるで他人事のように遠く考えていた。
呼吸のたび緩やかに上下する背中を撫でると、好奇心に駆られて、骨ばった肩甲骨と意外に逞しい肩へと指を這わした。
触れているからこそ分かる。
一見して白くきめ細かな皮膚の下に、若々しいしなやかな筋肉を感じる。
鍛え抜かれた忍びの身体は、いっそ優美なほどだ。
改めて、自分の身近にネジの存在を意識する。
思いのほか触り心地よいその肌の感触に、ドキマギと騒ぎ出す心臓を静めながら、ゆっくりと止めていた息を吐き出した。

生きて…傍らにいる。

ネジが、こんな風にヒナタの傍らで休息を求めるなど初めてのことで…まるで空を飛ぶ鳥が、一時木の枝でその羽を休めるかのようだった。
ただそれだけの事が、何よりも尊いもののように思われてヒナタは嬉しくなる。
とはいえ、ネジを鳥に喩えるのならば、鋭い爪と嘴を持つ猛禽類ではあるが…。

「ハァ…」

ヒナタは、さも感慨深そうに小さく溜息を吐いた。

「……ヒナタ様…そろそろ宜しいですか?」

ネジの肌を撫で回していた白い指先が動きを止めたのを見計らったかのようにその声は掛けられた。

「あっ! ご、ごめんなさい。ネジ兄さん!」

ヒナタは、ネジの肌をまさぐっていた指を慌てて引っ込めた。

「誘って、いらっしゃるのですか?」

ネジが困ったように、頬を歪めて苦笑する。

「え? ええっ!?」

素っ頓狂な声をあげるヒナタを横目に、ネジは、ククッと肩を揺らして苦笑した。

「あまり俺を煽らないで下さいね? 貴女の指で、そんな風に触れられたら、自制がきかなくなります…」

からかうような声色で、顔をあげたネジは、謎めいた光りをその双眸に宿しながら微笑んだ。
熱い感情の波が、静めた胸の内で漣のように湧き上がる。

「どうなっても、知りませんよ?」

ネジは、ヒナタの首筋をなぞるように、ついっと手を伸ばした。
その白い肌にネジの指が触れるか、触れないかのわずかな距離。

「ひゃ…んっ!」

思いもかけずヒナタの唇から甘い声があがる。

「ヒナタ様?」

ネジは、幾分掠れた低い声で愛しい人の名をそっと囁いた。
そのまま耳元へ伸ばした指の先で、しっとりと雨を含んだ藍色の髪を一筋からめとる。

「ひゃう…ん」

首筋を掠めるように触れたネジの指先に、ビクリ――と、ヒナタの肩が揺れた。
魅力的な唇から漏れた甘く心地よい音色に、ネジは、嬉しげに目を細めた。

「やだ…」

首筋まで真っ赤になったヒナタは、慌てて自分の口元を手で押さえて俯いてしまった。

『どうしてこんなに頬が熱いのだろう』

早鐘を打つ心臓の音に、ヒナタは、いっその事このまま失神してしまいたいくらいだった。
モジモジと肩を縮こまらせて、居心地悪げな様子が手に取るようにわかる。
そんなヒナタの恥らう仕草に、ネジは口元を微かに綻ばせる。

「嫌…ですか?」

意地悪を言うつもりではなかったけれど、ついネジの口は、ヒナタの言葉の意味を確認してしまう。

「え? …ち、ちが…そんな…イヤ…じゃ…ない…で…す」

ネジを拒絶したと勘違いされてしまったのではないかと、ハッと慌てて顔を上げたヒナタは、じっと見つめるネジの熱い視線に絡めとられて、次第と小声になっていった。

「嫌ではないのですね?」

クスリ…と、笑う従兄の顔が、憎らしいほど優しく甘やかに輝く。
甘く誘う声に、ヒナタの意識は優しく捕らえられてしまった。
緩やかに拘束する腕は、きっとヒナタが本気で抵抗すれば、それ以上の行為には進まずに許してくれるだろう。
けれど、不思議とそれが嫌な感じはしなかった。

「………はい」

観念したかのように呟くヒナタを、ネジは、愛しげに見つめた。
指先に絡めた艶やかな髪をするりと手放し、ネジは、そうっとヒナタの身体の上に身を屈めた。

「貴女は、無自覚なのでしょうけれど…。無防備な姿を見せるのは、今の俺には危険ですよ」

囁くように呟きながら、ネジは再びヒナタの身体に触れた。
知らず震えていたヒナタの手に、ネジは宥めるように…そして誘うようにその長く優美な指を絡める。

「あ…」

溜息を吐くように、ヒナタは、小さく声を漏らした。
甘やかな束縛だった。
指の腹で円を描くように皮膚を刺激されただけなのに、耳の先まで火照るのも分かるほど、体温が上昇してしまう。
くすぐったいような、ゾクゾクと身体の芯が震えるような感触に、ヒナタの意識がいやが上にも集中する。

「ふっ…やぁん…」

こんな僅かな愛撫にさえ、ヒナタの唇からは甘い声が漏れてしまう。

「――ヒナタ様…」

白い双眸が、ゆっくりと近づく。
いつの間にか、ヒナタの顎を包み込むようにネジの指が添えられ、唇が僅かに開くよう仰向けさせられていた。
ネジの眼が愛しげに細められ、頬を傾けて重なる瞬間――。

「ああ…」

震えるような声。
僅かに漏れた吐息さえ、触れた唇の間に小さく呑み込まれる。

優しく触れるだけの接吻。

それでも、たしかに二人が繋がった温かな感触。
初めて触れたネジの薄い唇は、ほんの少し冷たくて…けれどすぐに、ヒナタの柔らかな唇のぬくもりと、緩く融けていった。
















(2007.01.02改訂)

すいぞくかん 水乃えんり 筆
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