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梅雨の一日





 六月の半ば。
 日向ヒアシは、この日も早朝から起きだして、ひとり黙々と木ノ葉新聞の朝刊を読んでいた。
 早々と梅雨に入り、今朝もジメジメとした空気が屋敷を満たしている。
 広々とした畳敷きの居間で、ヒアシの指が規則正しく新聞をめくる音が静かに響く。
 障子の向こうから、こちらを窺う家人の気配を感じ、部屋の主は苛立だし気に眉をしかめた。
 湿気を含んだ紙が、ヒアシの指の動きにあわせて几帳面に折りたたまれる。

「――――遅い!」

 ヒアシは、不機嫌な声で一言だけ呟くと、入るようにと促す言葉も掛けず寡黙に目を閉じた。

「お父さま、おはようございます。遅くなってしまって、ごめんなさいっ。お茶をお持ちしました」

 部屋の外にいたのは、長女のヒナタであった。
 申し訳なさそうな表情で、静かに部屋へ入ると、ヒアシ愛用の湯飲みに熱い茶を注ぐ。
 すぐに茶葉の香ばしい匂いが部屋の中に立ち上り、ヒアシはゆっくりと熱いお茶を口に含んだ。

「うむ。良い茶葉だ」

 ヒアシは満足気に呟くと、ヒナタへもう下がってよいと頷き、再び新聞の紙面に注意を戻した。

「はい。失礼します」

 父親の素っ気無い言葉はいつもの事なのか、ヒナタもヒアシの邪魔をしないよう静かに部屋を後にした。



 彼の一日は、濃いお茶を一杯飲むことから始まる。
 普段からあまり会話を交わさない父娘であるが、朝のこの日課だけは欠かさずに続いていた。
 たぶんこの数分の時間だけが、家族らしい唯一の交流と言ってもいいだろう。
 ヒアシは、父親として保護者の役目はほとんど果たしていない。
 むしろ、日向宗家の当主という立場から、跡目であるヒナタに対して常に厳しく接している。
 ただ、ヒナタの性格は、叱責しすぎると萎縮してしまう為、最近は黙って放っておく事の方が多かった。
 ヒアシは、子供を褒めたり、甘やかしたりといった行為は一切せず、ただ宗家の人間らしくあれとだけ言い含める父親だった。
 一族の長となる精神を培うには、幼い頃から時間を惜しんで修行し、忍びとしての術を学ばせただけでは足りないのである。
 特に、ヒナタは女として生まれてきてしまった分、当主としての力は不十分と思われがちなのだ。
 女の跡目では日向の当主には力不足だと、分家の人間に足をひっぱられる事は、容易に察しが付く。
 下手をすれば、ヒナタのお守り役として置いている分家のネジを、と望む一派が現われるやもしれない。
 だからこそ、妻にもうひとり子供を産ませたのだが、またしても女児であった。
 ハナビと名付けた下の娘は、小さいながらも気質がとても強く、術の飲み込みも早い子である。
 忍びとしての資質も期待できるが、何よりもその性格が宗家の跡目として望ましかった。
 他者を傷つけることを極力避けるヒナタの甘さは、いずれ日向宗家の命運を左右するかもしれない。
 それならばいっその事、次女のハナビに跡目を継がせてしまおうかと考えないでもない。
 けれどヒアシのその選択を、一族の長老たちが、良く思うはずもなく、口を揃えて文句をいうのは察しがついていた。
 本来ならば、一族の当主の座は、宗家の長子が継がなければならない掟である。
 日向の血を護る為の『宗家』と『分家』のシステムは、貴重な能力を受け継ぐ家系の間で、安易な争いがおこらないように、と定められた確固たる一族の意思である。
 その為、分家の者は例外なく呪印術を施され、宗家に逆らう事を許さない『血の呪縛』を、生まれながらに宿命づけられているのである。
 もし、ヒアシが嫡子のヒナタではなく、下の娘を後継者と指名すれば、宗家と分家のシステムは根本から覆される事になる。
 一歩間違えれば、日向一族の存亡にも関わる一大事であろう。
 それでも、いずれヒアシは、一族の当主として決断を下さねばならぬ日がくる。
 それが、日向の一族を束ねる宗家の人間の役目であるのだから。
 守らなければならないのは、日向の『血』であり、その身に受け継ぐ希少な能力である。
 忍びである以上、死は常に身の回りに付きまとっている。
 必要とあらば、身内であろうと殺さねばならぬ事もあるのだ。
 事実、ヒアシも白眼の秘密を守る為に、実の弟を見捨てた過去があった。
 あの時も、宗家の当主たる自分が、動揺する事は許されなかった。
 一族の当主という立場は、心弱い者には決して務まるものではない。
 己の甘い感情に流されず、常に冷静な目で物事を見つめられる者でなくてはならないのだ。
 長女のヒナタには、人の上に立つだけの強固な意志が、決定的に足りないとヒアシは判断している。
 日向一族の血を色濃く受け継いでいても、ヒナタは当主たる器ではない。
 日向家の威信を守る為に、他者を切り捨て、非情に徹することはヒナタにはできまい。
 どんなに厳しい修行を与えたとしても、その人間が持つ本質は、そう簡単には変えられないのだろう。
 ヒナタの考えの甘さは心の弱さの現れであり、宗家の人間としては相応しくない。
 宗家の当主として、ヒアシの考えはすでに決まっていた。
 いずれ下されるヒアシの決定を、ヒナタも素直に従うだろう。
 問題は、掟にこだわる長老たちをどう説得するかだけだった。
 ヒアシは、思い出したように、飲みかけの湯飲みから立ち昇る茶の香りを深く呼吸した。

「ヒナタも、旨い茶を淹れるようになったものだ」

 ヒアシは、少し目を細めて、手の中のしっかりとした質感を持つ湯飲みを見つめた。
 ほんの数年前、幼かったヒナタが父の日のプレゼントにとヒアシに贈ったものだ。
 父親への愛情を、はにかんだ笑顔で差し出したのは、つい先日の事のように思い出される。
 父親らしい事など何一つしていない己自身を振り返り、ヒアシは自嘲気味にため息を吐いた。

 争いを好まぬ優しい娘。

 忍びの家系に生まれてこなければ、さぞ気立ての良い娘と褒められ可愛がられただろう……。

「ヒナタに、もう少し気概があれば……な」

 ヒアシは、しばしの瞑想のあと、湯飲みの中のお茶をゆっくりと飲み干したのだった。










すいぞくかん 水乃えんり 筆
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