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20070318
チラシオマケ小話




 『聖なる日』




春が訪れるには、まだ少し肌寒い季節。

「ふうっ…」

シンと冷気がまとわりつく空気の中、大きく白い息を吐くと、日向ヒアシは、日課としている早朝の寒稽古を終え、熱く火照った身体を乾いた布で拭った。
黙々と身支度を整えていると、道場の入口からひょっこりと見慣れた顔が現れ、屈託のない笑顔を覗かせた。

「ヒアシ様! こちらにいらっしゃいましたか」

ニコニコと笑顔を振りまきながら現れた弟に、ヒアシは、何事だ…と軽く眉をあげる。

「ヒアシ様に差し入れですよ」

差し出されたヒザシの手の上には、小奇麗に包まれた菓子折りがひとつ。

「……なんだ?」

怪訝そうに眉を顰めて問い返すヒアシに、ヒザシはさも驚いた様子で答える。

「バレンタインデーのチョコレートですよ。ご存知ありませんか?」

「ば、れんたいんでー?」

疑問がありありと浮かぶ顔で、ヒアシは首を捻る。

「簡単に説明しますと、今日は、尊敬する方や、日頃お世話になっている方へ、感謝を込めてチョコレートを贈る日なのですよ。宜しければ、私からの『気持ち』も受け取ってくださいね。甘味が苦手なヒアシ様に合わせて、ちゃんと甘さを控えておりますので、きっとヒアシ様のお気に召すかと思いますよ」

ヒザシは、邪気もなくニコニコと微笑みながら、ズズイッとヒアシの前へ贈物のチョコレートを進呈した。
そんな事で朝っぱらからわざわざ来たのかと、ヒアシは軽く苦笑する。

「そうか…ならば一口頂くとするか…」

ヒザシの好意を、無下に拒絶するのも憚られたので、ヒアシは素直に頷いて受け取った。
不器用な手つきで、ガサリと箱の包装を破く。
中から小さな黒い粒が現れると、フワリと甘いチョコレートの香りがヒアシの鼻腔を刺激した。

「甘くないですから、大丈夫ですよ」

躊躇するヒアシを後押しするように、ヒザシはにこやかな声でチョコレートの味に太鼓判を押す。

「うむ…」

その言葉に頷くとヒアシは、白い歯でガリッと黒い塊を噛み砕き、モグモグと口に含んだ。

「―――!?」

チョコレートを食べたヒアシの動きが一瞬止まる。

「ぶふッ!!」

ついで、ヒアシの口からなんとも言えない汚い空気音が吹き出した。

「な…なんだコレは? 本当にチョコレートなのかっ? ヒザシ!」

ヒアシは、ハアハアと肩で息をつきながら声を荒げた。

「ハイ。カカオ豆99パーセントの正真正銘のチョコレートですよ」

ヒザシは、優しげな眼差しでニッコリと微笑みながら、嬉しそうに頷く。

「ヒアシ様が、チョコレートも甘くなければ食べるとおっしゃったから、大急ぎで探したのですよ。この原料を手に入れるのに、本当に苦労したのですから〜しっかりと味わって食べて下さいね♪」

ヒザシは、ニコニコと心底、楽しそうな表情で、ヒアシにチョコレートを勧める。
だが、ヒアシには甘い菓子以上の更なる拷問だった。
カカオ99%のチョコレート。
それは、舌の上で解けもせずにとどまる物体。
まるで砂を噛むような食感に、ヒアシは硬直した。

「ささっ、ヒアシ様、遠慮なさらず。貴重なカカオ豆から作りました『バレンタインチョコレート』…もっとどうぞお召し上がり下さいませ」

ヒザシは、ニコニコと無邪気に微笑みながら、『感謝の気持ち』と称する好意…否、悪意の品を強要する。

「本当に…感謝…なのか…これは?」

「勿論です! 尊敬する貴方の為に考えた品ですよ」

人の揚げ足をとるような弟の言葉にジワジワと押され、逃げ場所もなくヒアシは、黒い塊を手にしたまま沈黙した。
日向宗家の当主たるもの常に己の心を律し、いついかなる場合でも、心身ともに平常心を保たねばならぬ…。
だが、今回ばかりはどうするべきか見当もつかなかった。

「ささ! 準備するのが本当に大変だったんですよ! どうぞ存分に、私の『気持ち』を味わって下さいね」

優しげな顔が、ヒアシの心を試すように見つめている。

『鬼がいる…』

苦々しい想いを抱いたまま、それを口にする機会を逸して、ヒアシは、そっと心の隅で嘆いたのであった。




すいぞくかん 水乃えんり 筆
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