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雨の中のネジヒナ 企画へ献上作品




『雨の記憶』





 あの日―、春の訪れを告げる慈雨は、芽吹き始めた草木の蕾をしっとりと濡らしていた。
 暖かい太陽の陽射しは、鼠色に霞んだ厚い雲に覆われ、霧のように降り続ける雨が、手入れの行き届いた美しい庭園を薄暗く閉ざしている。

「…っく。ひっく…ち、ちうえ…」

 シトシトと降り止まぬ雨の音に隠れるように、まだたった四つの幼児が、やむ事のない冷たい雨に打たれ泣いていた。

「――う、え…。父上――っ」

 幼い少年は、漏れ出る嗚咽を必死に堪えながら、大きな幹の影にその小さな身を潜めていた。
 止めようもなく瞳からボロボロとこぼれる熱い涙を、額ごと着物の袖に押し付け、水を吸ってぬかるむ地面の上へうずくまっている。
 華奢な身体で、四肢をさらに小さく縮こまらせて、その背が世界の全てを拒絶していた。

「――ネジ兄さん?」

 背後に近づく人の気配に、悲しみに歪められた少年の眉が、ピクリと反応する。
 たどたどしく名を呼び、ネジを探す少女の声に、思わず振り返ってしまいそうになる。

「ヒナ…タ様?」

 ネジは、涙の跡が残る茫っとした表情で、自分よりひとつ年下の少女の名を呼んだ。

「ネジ兄さん? …だいじょうぶ?」

 心配そうに掛けられた声に、ネジはふと我に返る。

 なんと無様な己の姿である事か――。

 スウッと吸い込んだ呼吸は、応えるべき言葉を失って、喰いしばった歯と唇の間に、煙のように消えてしまった。

「こないでください!」

 震える唇からただ一言、少女に告げた声は、気丈にも固く厳しかった。

「で…でも、雨にぬれてるよ。ぬれたままじゃ…カゼ、ひいちゃう…」

 初めて聞くネジの鋭い声に、ヒナタは、戸惑ったように言葉を途切れさせた。
 怖気づくヒナタの気配が、神経のささくれ立ったネジの背にもユラリと伝わる。
 素足のまま外へ駆け出したネジの足下は、随分と跳ね返った雨水と泥にまみれている。
 けれど、今のネジにはそれで構わなかった。

「ヒナタ様こそ、手駒の事などお気になさらず、早くお戻りになってください。宗家の姫君が、風邪を召されては大変ですから…」

 一呼吸置いて、ネジは酷くゆっくりとした口調で己の主人たる少女を振り返った。

「!? ネ、ジ兄さん…?」

 言葉こそ丁寧であったが、その言葉の裏にひそむ冷たい刃に、幼いとはいえヒナタも気が付かないわけにはいかなかった。
 利発な少年といわれたネジであった。
 分家の身分であったが、宗家の嫡子たる少女に目通りを許された数少ない人間。
 その名誉も、誇りも、今では寒々しい。
 ネジは嘲るように唇を歪ませた。
 全ては茶番劇だった。
 宗家と分家の者同士である自分たちが、相容れる事などないという事実。

「これだけずぶ濡れの私に、傘は必要ありません。それにもう…『兄』と呼ぶのはおやめ下さい」

 春の雨は、まだ降り続いていた。
 美しいはずの庭園は、凡庸な墨絵の如く色彩を欠いて、いっそ空ろな箱庭にしか見えない。
 幼い子供でしかなかった二人。
 その未成熟な心に知らされるには重過ぎる現実の枷。

「どうし…て…」

 自分の持ってきた傘を差し出そうとして、それさえもネジに拒まれてしまい薄紫の瞳が途方に暮れている。
 シンシンと冷える霧雨の中、目にも鮮やかな朱色の和傘をさして佇む少女の着物もまた、しっとりと水を含み始めていた。
 まだ幼く、可憐な眼差しの少女は、寒さで赤みを失いつつある唇から細く白い息を吐き、かじかむ指先を赤く染めていた。

 少年にとって、誰よりも大切な少女。
 何をおいても優先し、その身を護るべきヒト――。
 はにかみながら笑顔を向けてくれる可愛い、大好きな従妹だった。

「貴女が、宗家の嫡子であり。私が、呪印の辱めをうけた分家の者であるからです」

 突き放すようなネジの言葉に、傘を持つヒナタの腕がビクリと揺れる。

「分家は、宗家を護る為に在る。それだけの為に存在し、宗家にとってただの捨て駒でしかないのは分かりました。…そして、貴女を守る為に…、貴女の父上が、私から父を奪った!」

 長時間、素足のまま外に飛び出し、雨に打たれていたネジの身体もすっかり冷え切っていた。

「ネジ兄…さ…ん…」

 少女の柔らかな呼び声に、全身全霊でもって拒絶するべく、ネジは己の耳を閉ざす。

「私は、決して『宗家』を許さない!」

 ギリッと歯を食いしばり、鋭く睨みつけながら、ネジは、心優しい少女を容赦なく責めたてた。
 裏切られた想いが、強すぎた。
 ヒナタは、ヒクリとしゃっくりをあげて、見る見るうちに泣きそうになる。

「ご…めん…な…さ…。ごめん…なさ…い…」

 喘ぐように呟くか細い声が、必死に許しを請うていた。
 けれど、憎悪に染められた瞳は、幼い少女の姿を憎々しげに見返す。

「こんなちっぽけな駒の事など放っておいて、安全な『お家』へ、早くお戻りください…」

 ヒナタの想いを、ネジは冷やかな視線でピシャリと拒絶した。
 大きく目を見開き、ただ立ち竦む幼い少女の姿に、胸の奥が、軋むような音をたてて凍りついた。
 力ない少女が、悪いのではない。
 それでも、もう再び、優しい従兄の顔になど、戻れなかった。
 パシャパシャと雨の中を走り去る足音を耳にして、暗い満足感を覚えるとともに、ネジは絶望していた。

 出逢わなければよかった。
 まだ力のない四つの歳の身でしかないけれど、全身全霊を込めてお守りすると誓った。
 守るべき人と決めたのに…、誰よりも大切な少女だというのに、他の誰でもない自分が傷つけた。

 ヒナタの泣きそうな目が、なおさら激昂したネジの心を責めたてた。
 哀れみ?
 それとも、悲しみ…だったのだろうか?

「そんな眼で、ボクを見るな――!」

 誰もいなくなった空虚な場所へ、届くはずもない悲痛な想いを叫ぶ。

許さない…許すものか…。

 熱く猛り狂った感情に翻弄されながら、胸の奥が、キリキリと音をたてて痛む。
 降り続ける春雨の中、冷え切った手足が、感覚を失いしびれたように熱い。
 そして、閉じた目蓋の奥から溢れる涙で、焼きつかんばかりに頬が熱かった。

 額に刻まれた呪印が、疎ましい。
 何も出来なかった自分が、何よりも悔しい。
 力のない事が、許せなかった。

 幼いプライドが、張り裂けんばかりにキィキィと五月蝿く悲鳴をあげていた。
 呪印の刻まれた額が、ズキズキと熱を持って痛む。

「もう…誰も信じない…」

 少年は、その無垢な瞳に、暗く冷たい光りを灯し、溶けることのない氷の如く頑なに心を閉ざした。



 ――その日、日向ネジは、無邪気に慕っていた『宗家』の名の重さと、分家の呪印の忌まわしさを胸に刻み、その純粋な血を呪った。





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すいぞくかん 水乃えんり 筆
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